ジュリアン有生の『徒然なるページ』

4月23日

 

第25回 脳腫瘍で逝ったジュリアンの父

 

ジュリアンは、父が40歳を過ぎてから生まれた。

ジュリアンと父との間には、ずーっと距離感のようなものがあった。父とよっちゃんと兄とジュリアンと、4人で一つ屋根の下で暮らしながら、父は他の3人とは距離をとっていたように思う。大人になってジュリアンが思うには、父はそういう性格の人だったのだろう。たとえ家族と言えど人といると気を遣ってしまうと言うか、くつろげないと言うか、1人でいる時が一番くつろげるといった、そういう性格だったのだろう。なので、たまに接触を図ろうとしてもなかなか上手く他の3人に溶け込めなかったのではないか。が、2人乗りのブランコや、今ではもう義務付けられているが、当時は珍しかったチャイルドシートなんかも車に取り付けてくれたり、色々可愛がってもらった思い出はある。が、やはり距離感のようなものがあったことは否めなかった。

その父が1998年、大腸癌という診断を受け、手術をした。手術をしたら比較的完治率が高いと聞いていたので、手術が終わったら、癌との戦いももう終わりなのかと思っていたら、とんでもない展開になってしまった。大腸癌の手術を受けた時に既にリンパまで転移していた事が命取りになった。癌は手術後瞬く間に、肝臓、肺、そして術後4ヶ月で脳にまで転移した。いわゆる脳腫瘍である。

春のある日、突然ドーンという音と共に父は倒れた。救急車で病院へ運んだ。お医者様から脳腫瘍で症状が出た時にはすでに手遅れだと言われた。それから、父は2週間程でミイラのように痩せた。そして1ヶ月ほどしたら、病室の天井を指差し「ほら、キリンさんが飛んでる」とか、ジュリアンの袖口を覗き込み「今、金魚が泳いでたよ」等と言い出し、幻覚症状が現れた。ジュリアンの事が、分かる時と分からない時とが出てきた。

「ウチへ帰りたい」という父の訴えを聞き、お医者様が「もってもあと2週間程だと思われます。願いを聞いてあげてはどうでしょう」とよっちゃんに言った。よっちゃんとジュリアンは、一生懸命自宅で父の介護をした。すると、2週間どころか半年、父は頑張った。

父は自宅介護の大変さを家族に申し訳なく思っていたようで、どんなに床ずれが痛くても、どんなに頭に激痛が走ろうとも、弱音を吐かなかった。何の世話をしても、「ありがとう。ごめんね。ごめんね。」と言っていた。そして「みんな(家族)と一緒にいたいから、病院だけは嫌だ」とも言っていた。

どんどん衰弱していき、殆どちゃんとした意識がある時間がなくなってきた時、廊下を歩くジュリアンを父が呼ぶ声が聞こえた。襖を開けると、生まれて初めて、ジュリアンが生まれて初めて、父がジュリアンを手招きしていた。もうとっくに、首から下の機能が麻痺していたにもかかわらず、手のひらでゆっくり、おいでおいで、をしながら震えるような声で「おいで」と言った。側へ寄ると、父はジュリアンの手をしっかりと握った。目は天井を見たまま、とてもとてもしっかりと握った。まるで、生まれ変わってもジュリアンのこの手の感触を忘れないように、自分の手のひらに覚えさせているように感じた。

父には、脳腫瘍だという事は伏せていたので、『泣いてはいけない』と思い、唇をしっかりと結んだ。

手招きをしながら、「おいで」と言ってもらったのは、後にも先にも、これが最初で最後となった。

1週間後、ジュリアンがアルバイトに行っていた時、兄に「おかあさんを・・・よろしく・・・ ・・・」と言い残し、父は逝った。

アルバイト先に兄から電話が入り、自転車で10分の距離を急いで帰ったら、父はもうピクリとも動かなくなっていた。

最期にジュリアンの手を握っていた父の顔が、頭の中いっぱいに広がった。

涙が溢れた。

距離感があった父なのに、何日も涙が止まらなかった。が、ある日涙をぬぐった自分の手を見て、あっ、と思った。「お父さん、ここにお父さんがいる」

そう、ジュリアンは、顔はそれほどでもないが、首から下は、特に『手』は父にそっくりだった。父の手だ、と思った瞬間、ジュリアンは悲しみを乗り越える事が出来た。父はジュリアンの中に生きているのだ。ジュリアンがこの肉体で生きている限り、お父さんもここにいる。

長い人生いろんな悲しみに出会う。そして、人それぞれにその悲しみを乗り越えて人は生きていくのだろう。

とりあえずジュリアンは、父の死を乗り越えた!!

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