ジュリアン有生の「徒然なるページ」

第55回 ジュリアン、占い師までの軌跡

2003年11月2日

「占い師」。もしかすると変わった職業を本業にしているのかも知れない。

OLやってる人に「なぜOLになったのですか?」と聞く人は、滅多にいないだろうが

ジュリアンは結構聞かれる。「なぜ占い師になったのですか?」

ジュリアンが占い師になった理由。それは・・・

 

1章 物心ついた頃の不幸感

 

私は、物心付いた頃から「自分の人生は他の人と違う。なんかおかしい。普通の人では遭遇しないような不幸にいつも見舞われている」そう感じていた。

私が物心が付き始め、ようやくしっかり自分一人で歩けるようになった2歳の頃、兄が入院することになった。兄とは学年こそ2年違いだが、生まれた年でいうと年子になる。

そんな兄が腎臓の病気になり、大阪大学医学部付属病院という仰々しい病院へ入院した。

暫くすると病室が移され、腎臓の病気とは「腎臓癌」であることが判明した。

毎月3回、癌治療のための請求書が病院から届く。その1回分の支払額は、当時の高給取りと言われたサラリーマンの月給を上回る額だった。

父は必死で働き、母は幼い私を連れて、毎日、阪大病院へ通わなければならなかった。毎日の事なので、当然私は母に「だっこ」も「おんぶ」もしてもらえない。

その当時の私には自宅から阪大病院までの、電車と徒歩で約1時間の道のりが、まるで「歩く拷問」の様に感じられた。

病院へ行っても母は兄の世話で必死だった。私はいつも母からすると「お荷物」だったので、歩くのが遅いとか、そういった理由で叱られていた。

兄が診察室へ入る時、いつも私は一人で待合に残されていた。

「いい?ここでお母さん出てくるまで待ってるのよ」そう言われた私は、トイレに行きたくなっても、座っていた位置を少しもずらすこともなく座って待っているような子だった。

週のうち、半分は母と私は病院に「お泊り」だった。兄のベッドの横にある窓際の長椅子で、私が落ちないように母と壁の間に挟まれて寝るのだ。母は当時から恰幅のある人だったので、狭くて苦しかった事は今も記憶に残っている程だ。

お兄ちゃんは車椅子、私は自分で歩く。お兄ちゃんはみんなから大切に扱われている、私はいつもお荷物状態で、叱られてばっかり。

そんな毎日を送りながら時を過ごし、兄は片方の腎臓の三分の二と、もう片方の腎臓の三分の一を癌細胞に奪い取られたものの奇跡的に命は奪われずにすんだ。

私は、この頃から辛かった。毎日が苦痛だった。

子供ながらにお兄ちゃんも可哀想で、父も母も大変だった事はわかってはいたが、自分の心の中の「不幸感」は感じずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

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